・コルセアって?
1940年に初飛行したコルセアは、第二次大戦中に活躍した最も有名なアメリカ海軍戦闘機の1つで、長く運用されたレシプロ機だ。
愛称のコルセアはバルバリア海賊の意味である。
ヴォート社の他にグットイヤー社とブルースター社にも生産は移管され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブルースター社製の機体はF3Aという呼称が与えられた。
また、AUという呼称の攻撃機型も存在する。
大戦中は、主に太平洋戦線で活動したこの戦闘機は、特徴的な外観から歴代海軍戦闘機と比べ異質な形状をもつ存在だった。
全体的に細長くスマートなフォルムで、強い印象を与える逆ガル主翼、2000馬力級エンジン直径ぎりぎりの細いカウリング、大直径の巨大なプロペラを持つその姿は、
クマンバチのようにズングリした堅牢なイメージを持つ従来の海軍戦闘機と比べると異質だった。
特にエンジン音が独特な特徴を持つ音だった為、『死の口笛』というニックネームを与える事となった。
・開発と初飛行、艦載機としての悲劇
F4Uコルセアとして完成する次期艦上戦闘機としての研究・開発されるのは、
1938年頃で開発担当の1つヴォート・シコルスキー・エアクラフト社はアメリカ海軍航空局からの要求に従って設計・製作にあたる。
競合相手となるのは大手航空メーカー「グラマン」「ブリュースター」で、三社それぞれが持つ斬新で野心的な試作計画を元に競争を繰り広げる。
時が流れ第二次世界大戦が勃発し、欧州で繰り広げられる航空戦の詳細が入り始めると、
海軍航空局は試作中のコルセアに対して武装強化と防弾装備の追加要求を行い、設計の変更を余儀なくされる。
これにより、当初の設計案では運動性向上を求めて軽量化を測り、操縦席には防弾処置がなされてないなど零戦のような機体から、
後に現れる防御性と強武装に秀でたF6Fと似たコンセプトとなる。
加えて次期主力艦戦のライバル的存在がF6Fであった為、しばしば比較されるようになる。
F4Uの初飛行は1940年とF6Fよりも約2年早く、実戦投入も7ヶ月と早い段階に投入されている。
海面上昇力も高く、最高速度もF6Fに勝っていたが、
長い機首とカウルフラップのアクチュエータから飛んでくる油圧液とバルブプッシュロッドから飛んでくるエンジンオイルにより、着艦時の視界が最悪であった。
すぐに問題を解決すべく是正処置がなされたが、それでも不具合を持つ個体があったことで艦上戦闘機としての運用には難がありと判断され、空母運用は断念される。
その結果、F4Fの後継の座はF6Fに譲らざるを得なかった。
初期生産型のほとんどは海兵隊に引き渡された。しかしVF-17を例にF4Uを好み部隊ごと空母から地上部隊へと変更された海軍飛行隊も存在した。
・実践投入、帝国海軍との邂逅、敗北
F4Uの初戦は1943年、対艦爆撃の為に侵攻する爆撃隊の直掩としてガダルカナルに進出した時だった。
ここで数と練度で勝る帝国海軍航空隊に遭遇し、交戦した結果、米軍側が8機損失、日本側は零戦1機自爆という一方的な損害を受け、
後に「セントヴァレンタインデーの虐殺」と呼ばれる大敗北を喫した。
問題として、この戦闘で参加したF4Uの部隊が平均運用時間にして30時間に過ぎず、
機体特性もF4Fと異なるため上手く操縦しきれなかった点や、戦った相手に熟練者が多かったのも災いした。
新鋭機の初陣にも関わらず損失があったことに慌てた米軍は、当分のあいだ昼間爆撃を中断し、F4Uのパイロット達に対してすぐに日本側の強さと戦術を教育する羽目になった。
以後、F4Uは機体自体の高性能と機関銃6丁という当時としては高い火力を利用して『い号作戦』の頃には、汚名を返上する活躍を見せた。
しかしこの時期のF4Uを苦しめたのは、機体とエンジンの信頼性であった。
ソロモン戦域の劣悪な作戦環境と新しい機体の整備プールの不足により、さまざまな問題が発生し、現場を苦しめた。
この時期に搭載された高出力エンジンR-2800(通称:ダブルワスプエンジン)は、点火装置への電波干渉からの保護が不足して高高度でエンジンが停止するなどの問題が発生する。
さらにカウリングからはオイルが漏れ風防ガラスを覆って、胴体内の燃料タンクでも燃料が漏れるなど、1943年末までのF4U-1は高性能ではあるが危険な戦闘機だった。
F4U-1Aの登場時点ではエンジンの問題は改善、オイルの問題はカウリング上方のパネルを固定式に変え、燃料の問題は胴体にテーピングをすることで改善した。
F4UとF6FはR-2800をエンジンとした最初の戦闘機として互いの開発に密接な関連があり、
F4Uの改善過程はカビュレーターの向きを除き同じエンジンを使用したF6Fにフィードバックされ、殆どの初期不良問題を解決してから実戦に参加することができた。
この事から問題が殆ど解決した後で実用化されたF6Fは非常に幸運だったと言える。
・F4UとF6F
初戦の敗退、エンジンの不調、練度では未だ強く練度も高い帝国海軍航空隊との戦闘も相まって、海軍からの評価は微妙で逆ガルの翼を見て嘲笑するものもいた。
逆にF6Fは、F4Fと同じ機体特性を持ち機種転換しやすく、癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性、生残率の高い堅牢な防御力、見た目反して良好な運動性能があり、
格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体とされ、その真価はマリアナ航空戦で証明される。
折畳み式の主翼を備え一隻の空母に多数が搭載可能であったこともあり、大戦中盤以降、米機動艦隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となる。
これは、機体の共通点があるF4Uのフィードバックと日本側の搭乗員の練度が軒並み低下した時期にF6Fが投入されたの要因である。
反面、F4Uは地上に拘束されながらソロモン戦域で果てしなく消耗戦を繰り広げる。
・ラバウル航空隊との激戦
海兵隊のF4U航空隊たちは連合軍の矛先として、1943年末には「ソロモンのはしご」と呼ばれる進出を終えて、
1944年の春まで日本海軍・陸軍の最精鋭であったラバウル航空隊と激戦を繰り広げた。
ラバウル航空隊の優れた技量によりF4U航空隊も甚大な被害を被る形となったものの最終的にはラバウル方面の戦力を消耗させることに成功した。
これによりラバウル方面に展開していた日本海軍の第一航空艦隊や第二航空艦隊などの精鋭航空戦力も損耗し艦隊航空戦力が弱体化した。
以後弱体化された日本の航空戦力に対し、本格的に空母機動部隊に所属するF6Fが大活躍することとなる。
ソロモン戦域の消耗戦とは異なり、空母機動部隊の支援を受けて集中運用されたF6Fは艦載機としての優位性を活かし、積極的に戦果を重ねていき、その名を敵味方に周知させた。
マリアナ海戦でF6Fが日本の艦隊航空勢力を壊滅させている一方、F4Uは地上に縛られていたため、空中戦で活躍する機会がほとんどなかった。
だが見方を変えれば、上記に記した通り、F4U航空隊がラバウル方面の敵航空戦力を消耗させたおかげで、戦略的に優位に立って戦えたとも言える。
・艦載機として復活
この頃には改良や着艦方法の改善によってF4Uも念願の艦上戦闘機としての運用が可能になった。
1944年の春に艦上運用テストでF6Fと比較されるF4Uはより速く、機動性と上昇力も優勢であることを示し、
特にズーム上昇でリードしたので、米海軍は、F6FをF4Uに交替することを勧告する評価を下した。
1944年5月16日、空母運用能力が強化されたF4U-1Dに対して、
「一般的にF4UはF6Fと比較して、より良い戦闘機・より良い爆撃機であり、同等の空母運用能力を持つということが理事会の見解であり、艦載戦闘機と艦上爆撃機をF4Uに切り替えることが強く推奨される」
という結論が下され、本格的に艦載機としての能力を証明することになった。
こうしてF6Fを置き換えて大戦末期から戦後にかけてのアメリカ海軍の主力戦闘機・戦闘爆撃機となるが、
格闘戦向けのF6Fを「手強い相手」としていた日本機のパイロットからは、むしろF4Uは相対的には与し易しい相手とされた。
これはF6Fの戦闘状況の優位性とパイロットの平均的な練度の差が作用したこともあり、
実際には比較テストなどの同じ条件であれば、上記のようにF4UがF6Fより横転が速く、運動性の良い戦闘機であった。
以後、1944年12月28日から空母に配備されたF4U-1Dは、広い翼面積を活かした武装拡張性により戦闘爆撃機としての頭角を見せ、硫黄島や沖縄への攻撃に活躍した。
地上の兵士たちにはF4Uの心強い地上支援が好評であり、戦いが終わる頃には「沖縄の恋人」と呼ばれた。
F4U-1Dは太平洋戦争において最高の急降下爆撃機の一つとされるSBDドーントレスに比べ、まったく劣らない爆弾搭載量と正確な急降下性能を持っているとされた。
制空戦闘機や艦隊戦闘機としては、F6Fの陰に埋もれてしまったが戦闘爆撃機としての有用性を示した事が、長年に渡る活躍を見せる事になる。
・大戦後
大戦後は戦闘機のジェットエンジン化が進み、第二次大戦で活躍したレシプロ機達が一線を退く中、戦後もF4Uの生産は続けられた。
初期のジェット戦闘機は木造甲板空母での使用に難があったためだ。
純粋な戦闘機としての任務はジェット戦闘機に譲り、レシプロ機は戦闘爆撃機として使われる事になったが、F4Uはこの目的にぴったりであり、生産は1950年代まで続いた。
この時期、チャンス・ヴォート社は超音速戦闘機であるF8Uの開発に着手しており、その傍らでレシプロ機である本機の生産を継続していた。
朝鮮戦争では、お馴染みとなった海兵隊所属機として開戦当初に活躍した。
ほとんどの機体は20mm機関砲を装備したF4U-4BやF4U-5系列機体だったが、12.7mm機関銃を持った前大戦のF4U-4も参加して、
高い装弾数と信頼性で地上攻撃にあって、より効果的だという評価を受けた。
空中戦の性能を生かす機会はほとんどなかったが、たまに遭遇したYak機やLa機については、圧倒的な優勢を見せた。
しかし、第二次世界大戦に比べて発展した対空火力によってF4Uも多くの被害を被っていたのも事実である。
中にはMiG-15を撃墜した事例もあった。
1952年9月10日、地上攻撃のために、海辺の上を横切るていたポルモ大佐はウイングマンのダニエル中佐と一緒に4機のMiG-15に攻撃されて1機のMiG-15を撃墜した。
しかし、その後さらに4機のMiG-15が攻撃してきて、彼のF4U-4Bは、以降の交戦で撃墜された。
様々な活躍によって価値を証明したF4UはF4U-5NLやAU-1のような戦争の中の要件を改善したモデルの追加契約を獲得し、ジェット時代にも生産を継続した。
しかしF4U自身は1953年、退役を迎えることとなる。
・他国での活躍
アメリカでは退役したがここで終わらないのがF4Uである。
朝鮮戦争後はアメリカの同盟国に供給され、ラテンアメリカ諸国では長らく現役の座にあった。
フランス軍所属のAU-1は、1954年ディエンビエンフーの戦いに参加し、7週間1,442回の出撃をし、7週間、爆弾投下1,567トン、ロケット発射850発、機銃掃射130,000を記録している。
以後、フランス海軍はスエズ、アルジェリアなどでもF4U-7を使用した。
1969年のサッカー戦争においても使用され、レシプロ戦闘機同士の最後の空中戦を行った。
同年7月17日、ホンジュラスとエルサルバドル国境付近で起きた2度の空中戦において、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U-5が、
エルサルバドル空軍のF-51D*1 1機とFG-1D*2 2機を撃墜し、
レシプロ戦闘機最後の空中戦での勝者となった。ソト大尉は「最後のコルセア・ライダー」として知られる存在である。
コルセアの生産は、運用開始の1942年から10年以上も続き、1953年の初めまでに12、500機以上が作られた。
時代がジェット機主流になり、数は減ったが、正式採用から25年以上たった後でも、なお第一線機として使われた事からF4Uの長寿ぶりが伺える。
例としてフランス海軍航空隊で、エタンダールに席を譲ってF4U-7が引退したのは1964年末であった。
その後、サルバトール空軍 戦闘爆撃隊の第1中隊で12機のF4U-5が装備されていた。
また約60機がアルゼンチン海軍の軽空母「インデペンデシア」(以前はイギリス海軍「ウオーリア」)の第2攻撃中隊で使われた。
この使用機はF4U-5と5Nである。
アルゼンチンのコルセアは、1967年~68年にかけて、後継機のダグラス・スカイホークに席を譲り引退した。
このほかホンジュラスでは1979年に退役するまで運用されていた。
恐ろしいことに初飛行から80年近く経った2020年代でもかなりの数が現存しており飛行可能な機も多く存在する。
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